日記。芝居の映像をやる度に思うことその2

catavento2005-05-03

なるほどなるほど。
竹内氏、ぱぱ氏コメントありがとうございます。
3日間考えこんでましたが、
いや実際は仕事だったり、家族で越前に海鮮丼食いに行ったりでしたが、
その間考えこんでましたが、
この程度の文章しか書けず。文章にならず。つくづく文章書けんなあ。
直接話した方が伝わるなあ、僕の場合。
まあここは僕の文章のリハビリの場ですので、
今までの日記でもし誤解を招いたりしてる場合は全面的に僕の不手際です。
以下散文。思考の断片のピックアップ。


舞台上の生の役者を含め、観に来たお客さんの目の前に広がってる空間を
いかに納得させるか。
あらかじめ台本のト書きに書かれた映像部分の必然性にどうやって答えを返すか?
台本に書かれてない映像部分に関していかに必然性のある映像を作るか。
音響や照明などに比べ映像はイメージ的にはっきりしてるので
つまり意味を与え易いので(そうでもないよという気がしてきた)
一歩間違えば戯曲の魅力を損ないかねないという怖さがあります。
そのへん音響や照明、美術等他のスタッフはどんなふうに考えてるんだろ?
このオブジェがここにある理由はこのシーンのこのためだ、
この照明がなぜこの色でこの場所に当たるのかなど。
考えない方がいいモンが作れたりしますね。
そして作ってるときはそんなこと考えてる暇が無かったりします。
公演終わってからはこういうことを考えたりしちゃいますね。
いつも途中で考えがループして思考放棄しますけど。
でも映像はただの背景や説明で終わりたくないってゆう欲があって、
そのくせ台本に『映像。〜〜』と書かれた以上のことを
選択肢の一つとして演出家に提示出来なかったりする。
したところでもうやり尽くされてる手法だったりするんですね。
そもそもハード的な問題で提示できる選択肢が限られてたりする。
演出が、ここは背景や説明でいいんだ、と言えばそれまでですけど。
手法的にはやり尽くされても演出が面白ければ幸せですが。
散戒に関してその演出についていくだけの面白い映像が作れなかったという悔しさがあります。
もっと面白くできたのに、と。
それすらできないのに新しいこと考えようなんておこがましいことだ。
映像を使う芝居は特殊だという時代はとっくに終わってる。
かといって音響や照明ほどまだまだ常識的なものではない。
ム、そういう考えはイカン。
でも他のスタッフワークよりも特別なものでありたい。
単なるエゴですが。わがまま。
音響や照明、映像の次の段階って?


あまりにトッ散らかって意味不明。
続く。
画像は東尋坊がけっぷちねこ